昭和50年04月07日 朝の御理解



 御理解 第43節
 「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ。」

 今にも息を引き取りそうにある。願うというても息のある間は、そこに奇跡が起こらんとも限らない。矢張りどうぞ健康になりますようにと、死に際にでもやっぱり願う。同時に、本当にお国替えの状態の時にでも、願わずにはおられない。生きても死にても天と地とはわが住処と思えと。これからも新しい世界で、あなたのお世話にならなければならんのですから願わにゃならん。
 だからどうぞ健康に、もう臨終が間近いと言うても、医者は匙を投げてしもうておってもです、矢張り願わなければおられない。それは生への執着というだけではなくて、これは人情として願わずにはおられない。そこに奇跡と言う事もあるのですから。かというて、愈々この世をさようなら、さらばの時にです、やっぱり是からの事を願わなければならない。何故って天地より外に行くところのない、又新たな天地での世界、いうならあの世ともいうわけです。
 御霊の世界ともいうわけですが、御霊の世界でもあなたのおかげを受けなければ出来んのだから、願わなければおられない。またどうぞよろしくというお願い。今朝私は丁度朝の三時でしたが、名前は申し上げませんけれども、何の誰それみまかりと頂きました。みまかりと言う事は、亡くなるという事でしょう。私はびっくりして起きました。そして一心にお願いをさせて頂きました。そしたら今日の御理解でしたから。そして今度は字でみまかりと頂いた所に、まかと言う所を取ってという字を頂きました。
 そうするとどう言う事になりますか。緑と言う事になります。みまかりと言う事は、死ぬると言う事。それで又、死に際にも願いしようじゃから、一心にお願いさせて頂いておったら、まかという字を取っ、みどりとこう頂いた。みどりと言う事は元気という意味ですよ。元気になるという意味です。緑の色を元気な心という表現で、色で頂く時には頂きます。あぁおかげ頂いたなと。おかげでそこに奇跡が起こったわけです。
 今日はだから朝の三時から、ここへ出らせて頂いて、お礼を申させて頂いておるとこです。死に際にもお願いをすると言う事は、そこに奇跡を願うと言う様な場合もあるし、死んだからというて、神のお世話にならんわけには行くまいがと。だからあの世でもあなたのお世話にならなきゃならんのですから、どうぞよろしくと願わなければならんのですけれども。死んだからと言うて、神のおかげを受けずにはおられまいがという、ここを確信する事が信心だと思うです。
 死んだらそれまでたいと言った様なもんじゃないと言う事です。私の魂の行方と言うものが、ちゃんとあると言う事です。そして魂の清まり度合いというか、自分が心を神に向けておった度合いと言うものが、あの世でのおかげを受ける事が出来る。よし受けられないにしても、姿勢がそこに向けられる所に、いわば御霊の世界に入っても、愈々御霊の位も進むとか、安心の御霊としてのおかげを頂く事をです。
 御霊自身もお取次を頂いて、金光大神のお徳によってお縋りして、この世でおかげを頂いて、あの世でもおかげを受けなければならないと言う事を、身に着けて置くというだけでも、素晴らしいとこう言う事がわかります。今朝御神前で頂いた事は、幸福の曙光という事を頂きました。幸せのほのぼのと先が明るく見えてきた。この道さえ辿らせてもらえば、この信心さえ頂いておれば、今は難儀な中にあるけれども、幸福になれるぞと確信出来たら、幸福の曙光が見えだしたんです。
 皆さんどうでしょうか。幸福の曙光が見え出しておられるでしょうか。そこを確信しておられるでしょうと私は思うです。それはこの世だけの事だけではないなと言う事を、今日私は改めて気付かして貰った。私の母が大変色んな難儀をしておる時に、非常に親切好きなんです家の母は。それが易者の貰い子みたいな易者で、易者だと言うんです自分で。それでお酒を飲んでお金がないとです、私共は元酒屋をししよりましたから。それから要らんと言うてやって、お弁当まで詰めてやったんです。
 そしたらその易者が母に母もそれをいつも言ってましたが、私もそれをパッと覚えとりますが。小母さんあなたは六十になったら、大変幸せになるよと言いました。こうくってみると母が本当に、当時椛目の時代に人が助かり出してです。本当にここの爺っちゃま婆しゃまこそが、極楽だろうと言われる様なおかげを頂くようになったのは、確かその頃からです。だから母はいつも言ってました。
 こげん難儀苦労しよるけれども、易者が六十になったら幸せになると、あんたとても幸せになると言うたからと、いつも言ってましたです。それが言い当てたと言えば言い当てたけれども、それは幸福の曙光というものを見極めながら、信心頂いておるけん今はこうだけれども、幸せになる事は間違いないと言う様な確信をもって、生活しておったんだろうと思います。幸福の曙光とはそう言う事。
 だからこれはこの世だけの事ではない。今日私はあらためて思わせて頂く事はです。この信心さえ頂いておれば、この様にして清まる事に精進努めてさえおれば、魂の世界に行っても、必ず幸せの御霊としておかげが受けられるという、確信に満ちる時に死そのものも、また有難いのであり、死生の安心というものが生まれてくると思うです。死んだからと言うて、神のおかげを受けずにはおられまいがという、ここのところをですそりゃほんな事じゃろかと。
 死んだら死んだでそれまでたい、土になるだけたいという人もありましょう。けれども信心を頂いてです、この世で御利益だけに酔うておると言う様な信心からは生まれません。おかげを受けるという事だけにです。私が今朝頂きました。その方はまだここに参って来た事もないんです、実を言うとその関係の方達が一生懸命願っておられるのです。その人の名前を頂いてみまかりと。それから一生懸命願わせて頂いたら、みどりとまかを取って、そしてその中にど、という字を入れてみどり。
 元気なおかげを頂くと。また改めてそのままお礼を申させて頂いた。ですから死に際にも願うと言う事は、あの世に行っての事も願わにゃならんけれども、それは最後の最後までも、願いを捨ててはならないという感じが致します。ここへんの所を願わずにはおられまいがと言う所は、頂いて頂かねばならんが、私は今日の焦点は死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいがと言う事を、死んだからとてもこの神様の御厄介に、お世話にならなければならないと言う事を確信すると言う事だと思うです。
 それには私共の幸福の曙光というものが、この世だけではなくて、あの世までもつながった光を、願い求めての信心でなからねばならない。為にはどういう信心をさせて頂いたらよいかと言うと、おかげ御利益と言う事だけに終始したんでは、そういう高度なところに心も開けて来ないし、安心も生まれて来ないという事になります。これは一二ケ月もまえに頂いた御理解を、ここに控えておるのが、今日ここで目についたんですけれども、読んでみましょう。
 「報恩の原理は、その相手方の利益を思い、計るにあり。その報恩の目的は、全くその人自身の品性、感性のためなのである。その品性感性は、その人の、この天地間に生存する為の必要手段に外ならず、報恩のための当然の事とせり。」とあります。私共も天地間に生存のおかげを頂いておる、お生かしのおかげを頂いておる。恩に報いると言う事は、その相手方の利益を思い計るにありとある。これは神様だけでなく何事も真心になれよと、神恩報謝の心というものが篤くなってくる。
 お商売をさせて頂いておるならば、お客さんの奉仕と申します、サ-ビスと言う事。お客さんが喜んで頂く様な事を、思い念ずると言う事である。自分さえよければよいという生き方ではです、それはこの世に天地間にお生かしのおかげ頂いておる者の、当然の努めというか当然の事だと言うです。天地の大恩に報いる為に、社会の為に人の為に、本気で私共が相手方の幸せを願うというか、相手方の利益を願うという生き方。それはこの世に生存させて頂いておる者の、当然の事でなからねばならんというのです。
 天地間に生存する為の必要手段に外ならず。報恩の為の当然の事であると言う事が、天地に報いる心恩に報いる心、それが小さく人に社会に向けられる報恩の心が。神様の前に一生懸命お供えをしたりすると言う事だけが、報恩の生活じゃない。恩に報いる生活というのは、商売人がお客さんの為に働く。お客さんに喜んで頂く事の為に働く。そういう心掛けになる所から、天地の報いというものが、今度は返ってくる。
 天地の心がこちらに通うてくる。そういうあり方からでなからなければ、私は今日頂くような御理解は、実感として頂けないと思うです。これは無条件に天地に対する報恩の姿勢が、無条件に天地が、私共に報いて下さる心です。そこに難しくいうと死生の安心も又頂かれる。初めて死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいがという、その事を本当にそうだと確信出来れる生活。そういう生活が私は幸福の曙光と頂いた。この世あの世を通して、明るい光を目指しながら生活して行ける。
 真の人間の幸福というものがです。はぁ今はこんなに幸せで、幸福におかげ頂いておるけれども、死んだ先はどうなるだろうかと言う様な不安ではない。死んだ先にも、矢張りお世話にならなければならない。その神様の御働きというものを確信出来る所から、本当に信心を頂かなければ、真の信心を頂かなければ、しかもそれを報恩の生活に生き抜く姿勢と言う様な姿勢からでなからなければ、あの世での光というものは与えられない。これは自分で求めて頂けるものではない。与えられるもの。
 それには先ず与えなければならない。それは社会に人に明るくして行く所の信心生活。神恩報謝の生活とはそういう生活と思うですね。ただ神様に参りさえすりゃよいお礼さえ申し上げりゃええ。神様にお供えさえすればええと言うだけが神恩報謝じゃない。社会に対する人に対するそういう報恩の心というものは、これは天地の間に生存する者は幸福になる必要の手段に外ならず、報恩の為のそれは当然の事だというのです。教祖が仰る何事にも真心になれよと言う事です。これは商売人だけの事じゃありませんよ。
 自分の相手の人が助かる事の為に、その相手の人が幸せになる事の為に。相手の人が利益になる事の為に、自分が損しとかんならんと言う事では決してないのですよ。相手が助かる、相手が利益を受ける事の為に私共が奉仕する。それは天地の間にお生かしのおかげを頂いておる者の、当然の働きであると言う事が、解らせて貰う様な信心が、身について来る時に初めて、あの世この世を通しての幸福の曙光というものが、本当に見え出してくるおかげになると思うですね。
   どうぞ。